東京地方裁判所 平成8年(ワ)25401号 判決 1998年11月26日
主文
一 本訴事件について
1 被告(反訴原告)は原告(反訴被告)に対し一〇二万円及びこれに対する平成八年一二月二九日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
2 原告(反訴被告)の被告(反訴原告)に対するその余の請求を棄却する。
二 反訴事件について
被告(反訴原告)の原告(反訴被告)に対する請求を棄却する。
三 訴訟費用はこれを四分しその三を原告(反訴被告)の負担としその余を被告(反訴原告)の負担とする。
四 この判決は仮に執行することができる。
理由
【事実及び理由】
(以下、原告(反訴被告)を「原告」といい、被告(反訴原告)を「被告」という。)
第一 当事者双方の請求
一 本訴事件における原告の請求
被告は原告に対し二六九七万円及びこれに対する平成八年一二月二九日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
二 反訴事件における被告の請求
原告は被告に対し七五三万円及びこれに対する平成九年一〇月一四日から支払済みまで年六分の割合による金員を支払え。
第二 事案の概要
一 原告の主張
1 原告は、サリプラマ社(以下「サ社」という。)との間で、サ社がインドネシアのスカブミに建設するスクアレン・スクアランドプラント(油を精製して化粧品等を生産する工場。以下「SSプラント」という。)に、スクアレン・スクアラン製造用機械機器を納入する約束をしていた。なお、SSプラントの土木工事、工場建物建設工事は、右約束の範囲に含まれていない。
原告は、平成七年六月二〇日、被告との間で、右機械機器の設計図及び仕様書等の作成並びに右機械機器の製造及びSSプラントへの納入を被告に請負わせることとして、次の内容の請負契約を締結した。
(一) 被告は、スクアレン・スクアラン製造用機械機器の図面、書類、仕様書等及び右機械機器を作成して原告に納入する。
(二) 請負契約金額 一億七〇〇〇万円
(三) 手付金((二)の内金) 一三〇〇万円
(四) 納入方法 信用状受領又は原告より信用状受領後四箇月以内に原告の指示する神戸又は大阪港渡し
(五) 支払方法 原告は信用状を受領後被告に交付する。
2 原告は、右契約に基づき、被告に対して次の支払をした。
(一) 平成七年六月二八日に手付金として一三〇〇万円
(二) 平成八年七月一五日に中間金として一三九七万円
3 原告は、平成八年一一月二九日、右1の契約の解除の意思表示をした。解除の理由は、原告が平成八年一〇月二八日に富士銀行を通じてサ社の信用状を受領し被告にその旨を通知したところ、被告は原告に納入する機械等の代金は信用状の二割増でないと納品できないと称し、かつ右信用状が到達するより前にサ社に直接取引を申し出るなどしたため、原被告間の信頼関係が失われたが、被告は右2の二六九七万円を受領しながら全く請負契約の約定の義務の履行をする気配がなく、原告はサ社に対する履行が不可能になったということである。
4 被告の主張4は争う(被告主張の債権を自働債権とする相殺の意思表示がされた事実は認める。)。
5 よって、解除に基づく原状回復として右2の二六九七万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成八年一二月二九日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。
二 被告の主張
1 原告の主張1記載の本契約が成立した事実は否認する。
原告主張に係る契約は、機械類の設置、試運転、操業指導を含み、プラントを操業可能な状態にすることをもって被告がその義務の履行を完了したことになる契約(ターン・キー契約)であると解されるが、被告は原告からの代金の支払いを確実に受けるため、被告が信用を措くに足りる信用状(契約金額のもの)を原告がサ社から受領した上でこれを被告に交付するまでは右ターン・キー契約の実質を有する本契約を締結しないことにしており、未だ右の要件を満たす信用状の交付がないので、本契約は締結されていないのである。
2 原告の主張2記載の日にその主張に係る額の金員が原告から被告に支払われた事実は認めるが、右金員支払いの趣旨は否認する。
(一) 被告は原告から原告の主張1記載のような契約締結の申し出を受けて見積りをするなどの検討をしていたが、条件が折り合わず、信用状も間に合わず、未だ契約締結に至っていなかったところ、原告からエンジニアリング業務等(図面やノウハウの提供等)だけでも独立して契約してくれといわれて、平成七年六月二二日ころ、代金一三〇〇万円でこの業務だけを行うことに合意したにすぎず、平成七年六月二八日に支払われた一三〇〇万円は右エンジニアリング業務等の代金である。被告は右業務を完成している。
(二) 平成八年七月一五日に支払われた一三九七万円については後記4参照。
3 原告の主張3の事実のうち、解除の意思表示がされた事実は認め、その余の事実は否認する。
4 被告は、平成八年七月一五日、原告から「工期を急ぐので、信用状は必ず被告に交付して契約を成立させるから、製造に時間のかかる機器類(ポンプ等)の製造を開始してくれ。」と頼まれ、同日、その前金として一三九七万円を受領した。被告は、右依頼に応じて作業をしたが、いつまでたっても信用状を譲渡しない等の原告の怠慢によりついに契約締結に至らず、原告の主張1記載の本契約が成立するものと信頼して次のとおり右前金額を七五三万円も上回る二一五〇万円もの出費を余儀なくされ、原告に対して右同額の損害賠償請求権を取得した。
(一) マスターリスト等の作成費用 一二〇〇万円
(二) サ社とのインドネシアでの打ち合わせ・調査に要した費用 三五〇万円
(三) 機械・機器の設計費 三〇〇万円
(四) 信用失墜に対する慰謝料 三〇〇万円
5 よって、被告は、右二一五〇万円の損害賠償請求権をもって平成八年七月一五日に支払われた一三九七万円の返還請求権と対当額で相殺した上、債務不履行による損害賠償として七五三万円及びこれに対する反訴状送達の日の翌日である平成九年一〇月一四日から支払済みまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払を求める。
第三 争点に関する判断
一 《証拠略》を総合すると、以下の事実が認められる。なお、原告代表者の供述のうち後記認定事実に反する部分は、その供述態度等に照らして採用することができない。
1 吉野製作所と被告は、共同して、インドネシアのボゴールに建設されたSSプラントの機械機器等を製造したことがあった。
サ社は、原告代表者韓正沢の親戚が経営する会社である。原告は、平成六年一〇月ころ、サ社との間で、サ社を注文主、原告を請負人として、インドネシアのスカブミにサ社が建設する予定のSSプラントに設置する機械機器等を代金約二億円で原告が製造して納入する旨の契約を締結した。右契約が順調に履行できれば、原告代表者がサ社の取締役になるという話もあった。
原告は、サ社から請け負った右SSプラントの機械機器等の製造の下請を実績のある吉野製作所に受けてもらいたいと考えて、平成七年二月ころ、同社に対してその旨の依頼をした。吉野製作所は、原告の信用力に不安を持っていたので、まず原告から被告に請け負わせ、被告から吉野製作所等が作業の一部を更に下請する方向で検討することとし、原告に対して被告を紹介した。その結果、被告は、原告との間で、右のSSプラントの機械機器製造請負契約の締結に向けて交渉に当たることとなった。
2 被告は、平成七年二月に、SSプラント機械機器製造の見積を開始し、当初は二億数千万円台の見積を出したこともあったが、原告が価格に難色を示したため、プラントの生産能力を低くするなどの方法による見積代金の減額を何回か繰り返した。最終的には、被告が一億七〇〇〇万円(エンジニアリング費等一三〇〇万円込み)の見積を出して、契約内容についてはおおむね両者の合意をみるに至り、平成七年六月二〇日には、右合意内容が記載された契約書案(甲一)が完成するに至った。この時点においては、原告は、被告に対して、速やかに信用状を譲渡することができると説明しており、被告も直ちに信用状の譲渡を受け、契約書に調印することができるものと考えていた。
被告は、原告の支払能力に不安を抱いていたため、原告がサ社から支払を受ける代金を確実にそのまま被告への請負代金の支払いに充ててもらえるようにしようと考え、原告がサ社から受領する信用状(本件請負代金と同額)であって被告が信頼の措ける一流銀行発行のものの譲渡を受けないと本契約を締結しないという意向を原告に対して表明し、その結果、原被告は、信用状の被告への譲渡後に契約書案(甲一)への調印をした上で本契約に基づく本格的な仕事を開始することとし、それまでは本契約を履行しなくてもよいことに合意した。
3 原告は、本件SSプラントの早期完成を急いでおり、被告に対しても早期完成に協力してほしい旨強く要請していたが、右契約書案(甲一)完成後まもない平成七年六月ころ、被告に対して、本件SSプラント機械機器製造に関して、スカブミの現地では工場建設のための建築土木工事を始めているので、被告においてもエンジニアリング業務だけでも先に作業を始めてほしいと要望した。その結果、原被告は、被告が右業務にかかる費用を前金で支払を受けることを条件に右業務だけを先に開始することを合意した。右費用として、平成七年六月二八日に一三〇〇万円が原告から被告に送金され、同年七月一日には「L/C(信用状)開設遅延の可能性が生じたために、プラント建設早期完成を目的として当覚書を作成する。被告は、原告から、設計、図面の作成及びエンジニアリング費として一三〇〇万円を領収後、本プロジェクトに必要なエンジニアリング、設計、図面の作成を始める。万一本プロジェクトが中止された場合、被告は一三〇〇万円の返還の必要はない。」旨が記載された覚書が原被告間で調印された。
被告は、そのころから、本件SSプラント機械機器製造に関するエンジニアリング業務を開始した。被告の担当者は、インドネシアに出張し、スカブミの現地視察などをした。被告は、同年八月には、エンジニアリング業務を終了し、設計図等の必要書類を原告に引き渡した。
スカブミの現地では、サ社が依頼した別の業者により、建物の形状、寸法や基礎の強度につき、被告の作成した右の機械の設計図等に合わせて、工事建物の建設等の工事が開始された。
4 日本で被告が製作したSSプラントの機械機器をインドネシアに輸出するには、インドネシア当局の輸入許可が必要であり、そのためにはマスターリストと呼ばれる機械機器の名称、製作地、仕様、数量、価額等を記載した主要品目機器リストをインドネシア当局に提出する必要があった。
また、信用状を発行してもらうためにも、マスターリストのインドネシア当局への提出が必要であった。
右マスターリストの作成は、右機械機器、これに使用する薬品及び触媒等に関する資料収集、調査、取りまとめ等に大きな費用と手間のかかる業務であり、また、その作成を時間的にも費用的にも効率的に実行するには経験と実績(ノウハウの蓄積)が必要なものであった。また、右マスターリストの作成は、原被告間で締結が予定されていた本契約の対象外であり、本来は輸入者に当たるサ社が作成すべきものであった。しかし、原告代表者の親戚が経営するサ社側にはマスターリストの作成能力がなかったので、平成七年五月ころ、原告及びサ社がマスターリスト作成につき経験と実績を有する被告にその作成を要請し、その結果、被告がサ社のマスターリスト作成業務を代行することとなった。被告は右業務を完成して原告側に引渡した。
5 その後約一年もの間、原告から被告に対して信用状の譲渡がされないため本契約が締結できないという状態が続いた。原告は、平成八年七月ころ、被告に対して、本契約前ではあるが本件SSプラントの早期建設のために、SSプラントに納入すべき機械機器の一部であって製造に時間のかかるもの(ポンプ類)だけでも製造を開始してほしいと申し入れた。被告は前金を支払ってくれることを条件としてこれに応じることとした。そこで、原告から被告に対して機械類の一部についての製造に係る注文書が発行され、同年七月一六日に前金一三九七万円が原告から被告に送金された。被告は、右依頼に基づき、個別の機械の設計図(原案図)の作成等の業務を遂行した。
平成八年七月には、被告の担当者が、インドネシアに出張し、ジャカルタやスカブミの現地に赴いての打ち合わせや現地指導の業務をした。
6 被告は、一年以上も契約締結が遅れたため、平成八年九月には本契約の請負代金を二〇%増額するように原告に対して要求した。原告がこれに応じなかったため、被告は、原告に対して、本契約締結を保留したいという意思を表示した。
平成八年一一月一日にようやく信用状(金額一億四〇一七万円)の写しが原告から被告にファクシミリで送信されたが、右信用状は原告から被告に対する譲渡ができないもので、金額も不足しているなど、肝心の重要な点において原被告間の約束に反するものであった。被告は、本契約締結が困難であるという意思を原告に表示した。
原告は、平成八年一二月一九日、被告に対して、契約書案(甲一)に基づく本契約が既に成立していることを前提に、右契約を解除する旨の意思表示をした。
7 この間、被告は、いつかは原告から信用状の交付を受けて本契約が正式に締結されるものと信じて、設計、図面の作成、エンジニアリング業務、マスターリストの作成代行、機械機器の製造、設計した機械を設置するに足りる形状、寸法及び基礎強度を有する工場建物が建設されているかどうかについての現地における指導監督作業等の業務を行い、従業員数名が多大な労力を費やして右業務に携わった。
二 右認定事実に基づいて検討する。
1 平成七年六月二八日に支払われた一三〇〇万円について
原告と被告は、平成七年六月下旬に本件SSプラントの機械機器製造に関するエンジニアリング業務だけを被告が原告から代金一三〇〇万円で請け負う旨の請負契約を締結し、同月二八日に原告が被告に対して右代金として一三〇〇万円を送金し、被告は同年八月には右エンジニアリング業務を完成して原告に引き渡したものということができる。したがって、被告は右一三〇〇万円を請負代金として正当に受領することができるのであるから、右一三〇〇万円の返還を求める原告の請求は理由がない。
2 平成八年七月一五日に支払われた一三九七万円について
(一) 原告は、被告が本件SSプラントの機械機器等を製造した上代金一億七〇〇〇万円で原告に納入する旨の本契約が成立したと主張するが、代金を一億七〇〇〇万円とする本契約が成立したことを認めるに足りる証拠はない。
かえって、契約書案(甲一)に原被告双方の押印がされていないなどの前記認定事実によれば、本契約が成立していないことは明らかである。
(二) 本件においては、右1において説示したとおり、右契約書案(甲一)記載の業務のうちエンジニアリング業務の部分だけを被告が原告から代金一三〇〇万円で請け負う旨の契約が成立したほか、前記一の5以下に認定したところによれば、平成八年七月ころ、右契約書案(甲一)記載の業務のうち機械機器の一部(製造に時間のかかるもの)だけを製造する旨の契約が成立したものというべきである(代金については相当価額による旨の合意があったものと推認される。)。同年七月一五日に支払われた一三九七万円は右契約の代金の一部として支払われたものであることが明らかである。そして、前記認定事実によれば、右契約は、同年一二月に、注文者である原告が一方的に解除したものというべきである。そうすると、契約の解消にともない、右一三九七万円については原告が被告に対して返還請求権を有するものと一応いうことができる。
(三) 他方、前記認定事実によれば、原告が、信用状を被告に譲渡できる十分な見通しもないのにこれが確実であるかのように被告に対して説明して代金一億七〇〇〇万円の本契約書案を作成し、サ社の本件SSプラントの早期完成に協力してほしい旨を被告に対して要請し、代金全額前払済みのエンジニアリング業務のみならず、マスターリストの作成代行、現地における工場建物建設等についての指導監督、一部機械機器の設計図(原案図)の作成などの多くの業務を遂行させたという事実を推認することができる。
そして、このような多くの業務は、すべて、原告が被告に対して本契約締結前に本契約の成立は確実であると誤信させて本契約の内容を一部実行してほしい旨を要請し、または、本来サ社又は原告において作成すべきマスターリストについて被告に作成代行してほしい旨を要請したために、被告において実行に移したものであって、原告側からの要請もないのに被告側が先走って実行に移した業務は存在しないということができる。
他方においては、いずれ本契約が締結されることは確実であると被告が信じた点について、被告に格別の落ち度があったことを認めるに足りる証拠はない。
そうすると、契約締結交渉関係にあった者の間の関係を規律する信義誠実の原則に照らし、原告は、被告が本契約の締結を信じて行った右各業務にかかった費用相当額の損害を、被告に対して賠償すべき義務(いわゆる契約締結上の過失の理論に基づく義務)を負うものというべきである。
(四) 被告に生じた損害の額について検討する。
被告主張に係る損害のうち、マスターリスト等の作成費用(一二〇〇万円)、打ち合わせ・調査費用(三五〇万円)、機械・機器の設計費(三〇〇万円)、以上合計一八五〇万円については、《証拠略》を総合すると、少なくともその七割に相当する一二九五万円の損害が発生したことを認めることができる(右金額を上回る額の損害の発生を認めるに足りる証拠はない。)。
信用失墜に対する慰謝料(三〇〇万円)については、右損害の発生を的確に認めるに足りる証拠はない。
そうすると、被告が原告に対して請求し得る損害の合計額は、一二九五万円である。
(五) したがって、原告の被告に対する一三九七万円の返還請求権のうち一二九五万円は相殺により消滅し、請求し得る残額は一〇二万円である。他方、被告が原告に対して請求し得る残額は存在しないことになる。
三 以上によれば、本訴事件における原告の請求は一〇二万円及び訴状送達の日の翌日以降の遅延損害金の支払いを求める限度で理由があり、反訴事件における被告の請求は全部理由がない。
(裁判官 野山 宏)